Cat of AZ

Non Stop Thinking

バズツイートに思うこと

「まとめられる筈の無いこと」について、ただ思ったことのまとめです。

本文

僕は個人の自由と幸福が最大限尊重される社会がよいと思いますし、結婚・子作りが個人の自由と幸福を奪うものならば、それらを犠牲にしてまでしなくてもよいのではないかと思います。結婚、子作りをしなくても個人として幸せになることは可能だとも思います。その点は投稿著者に同意です。

そういった考えと同時に、とはいえ子作りとは尊いもので、賞賛されるべきものだという気持ちもあるのですよね。 我々が個として人として自由と幸福を得るためには、生みの親の存在は避けられないわけです。親が子を幸せにするわけではないにせよ、親の子作りから生命が始まるという事実は曲げようがなく、何人たりとも逃れられないものです。子作りがさき、生命があと。これは強固な(あるいは呪いのような)事実です。

子供を作るということは、新たな個人に自由と幸福のチャンスを与えるということです。もし親が、親自身の自由と幸福を理由に子作りをやめていれば、あなたは生まれていなかったかもしれないし、自由と幸福のチャンスがなかったかもしれないわけですから。その尊い行いは、賞賛されてよいはずだと思っています。そして同時に、子作りをしていないことが批難されてはいけないとも思います。一方への賞賛は、必ずしも他方の批難を意味しません。

もう一つ思ったことは、子作りが親個人の自由と幸福を100%の目的として行われてほしくないな、ということです。その目的だと、子供は親のために生きなければならないからです。それは時として、子供個人の自由と幸福に反します。親のために生きるのも子供の自由ではありますが、それは子供の自由と幸福を前提としたものです。 該当のバズツイートは、結婚と子作りが個人の幸せのために行われる行為であるかのようなニュアンスを感じました。たしかに結婚は二人の幸せのための行為ですが、子作りは親二人の幸せのためだけの行為ではないと僕は考えます。親も子供も一個人として、その自由と幸福を最大限尊重されるべきです。もちろん、親の自由と幸福が、子供の自由と幸福と一致することが望ましいですが、それは容易くはないだろうとも思います。

ということで、僕は結婚して子供がいる人はスゴいと思いますし、別に結婚してなくても子供がいる人はスゴいと思います。結婚は二人の契約ですが、子作りは決して二者に完結しない行為だからです。 これは上に述べたような考えがあってのことで無意識ではありませんし、僕はその両方ともを経験していませんから経験則でもないです。 該当バズツイートは『「結婚」「子ども」攻撃』 といわれる幸福的価値観の押し付け(と攻撃者の主張に付随する幸福的価値観)を問題としており、そのような文脈であれば基本同意するところではあるのですが、それ以外の部分にはちょっと引っかかる部分がありました。「子どもがいるのはスゴい」と言いづらい社会になってしまっては、子育てをする親があまりに報われないと思います。子作りを賞賛することは、他者の自由と幸福を脅かすものではないはずです。

他には、個人の自由と幸福を犠牲にしなければ結婚・子作りができない社会だったら誰もしなくなるよね、ということを思いました。なんだかんだで社会が悪い。行政が子作りをもっと賞賛し、支援するべきなんですよね。

あと、親孝行について少し。 親にもらった生命に対してどうお礼を返していくか、ということなんですが、目には目を歯には歯を、とはいっても親に生命は返せぬのですよね。心臓を捧げるわけにもいくまいし。となると、次の人に生命をあげる子作りというのは一つの親孝行になるのではないかと思いました。いわゆるマゴノカオという結論で、ありきたりなんですけど。 しかしそれも、個人の自由と幸福があってこそなので。できることしたいことをやればよくて、別になんだっていいんですよね。

以上。結婚もしていないし、子供もいないので、思ったことを書いてもいいかなと思って書きました。 全ての人が自由と幸福になりますように。