偽善
「やらない善よりやる偽善」という言葉があります。「偽善でも、善をやらないよりは良い」という意味でしょう。この言葉に、ずっと疑問だったことがあります。どうして、善をやらないのでしょうか。「やる偽善」より「やる善」の方が良くないですか? そりゃ、やらない善よりはやる偽善の方がいいかもしれません。でも、どうせやるなら善がいいです。やる善と比べたら、やる偽善もやらない善も、五十歩百歩じゃないですか。
やる・やらないの軸と、善・偽善の軸があるならば、「やらない偽善」なんてのもあるんでしょうか。偽善だったらやらない方がいい。なるほど、考え方としては確かにありかもしれません。「やる善」とは対偶のような関係にあって、「やる善」を真とするならば、「やらない善」よりも「やる偽善」よりも、「やらない偽善」の方が正しいのかもしれません。
では、「やる善」と「やらない偽善」はどっちがいいのでしょう。…難しいです。
というか、そもそも善ってなんですか。偽善ってなんですか。善と偽善の違いってなんですか。何が善で、何が偽善なんですか。善と偽善って、背反するものなんですか。偽善が善になることだってあるかもしれません。むしろ偽善ではない善なんてないのではないか、という気にすらなってきます。どんな善も、偽善から始まるのかもしれない。そもそも善なんてものは存在しなくて、全ては偽善なのかもしれない。けれど、偽善が存在するのに善が存在しないのも、なんだか妙な話ですし…うーん。
偽善って、難しいですね。